2015年08月23日

ダイキン淀川盆踊り

8月21日の金曜日の夕刻、今年もご招待を受け、ダイキンの盆踊りに参加しました。

いつものことながら、大勢の人で活気にあふれています。
                                
遠い知床から贈られてきた流氷が展示され、手で触って冷たさを確認します。






                  
 
中央に組まれた大きなやぐらでは、次から次にメンバーが変わって踊りやショーが繰り広げられます。


やぐらの周りも多くの人が輪になって、盆踊りを踊って楽しみます。





元気いっぱいのダイキン、今年はヨーロッパでよく売れたそうです。

景気が回復してきたとは言え、最近ある大企業で数千人のリストラが新聞にのりました。

ダイキンは今までリストラをしたことが無い・・・とお聞きするだけで、嬉しく感じます。

これからも、元気な活気あふれる企業として世界で活躍されることを期待しています。

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Posted by 梅原 千鶴 at 16:09Comments(0)行事

2015年08月17日

お盆 (2015)

暑い夏の盛りに、ご先祖様をお迎えするお盆の行事、今年も恙無く終わりました。

我が家では、お寺さんがお参り頂く日に合わせ、夫の弟妹が集まり、共に食事をします。

10日にお参り頂きましたので、弟妹もお寺さんの来られる時間前には仏壇の前に集まりました。

こうして、欠けることなく集まれることに感謝し、この幸せが長く続くことを願います。




お寺様が帰られるとき、玄関に飾っていた『風』のミニ額をご覧になって、「何で書いてあるのですか?」と、尋ねられました。

「フォーク、マクドなどにあるプラスチックのフォークです」と答えますと、「自分でも書いてみます」と、チャレンジされるおつもりのようです。




夫は、アトリエに掛けていた『蓮華』と題した絵に般若心経を書き込んだ私の作品をお寺さんにお見せします。やはり職業柄これも興味深くご覧になり、嬉しく想うことでした。

お昼は私の手料理でゆっくり食事をしてもらいました。こうして皆が集まるのは、盆とお正月くらいですね。今年は手持ちの松花弁当にお料理を盛りました。写真を撮り忘れ、披露できないのが残念です。いつもお腹にしまってから気が付くので・・・・困ったものです。

 メニューは、御造り2種・烏賊の姿煮・焼き鯖寿司・焼き豚・鱧の皮とキュウリの酢の物・長イモの醤油漬け・そーめん・付け合せに家で採れたトマト・大葉・自家製ガリ。このうち前日の夕方デパートで買ってきたもの、烏賊・焼き豚・焼鯖寿司・・・専門店のこれらは美味しくて、随分手抜きさせてもらいました。




12日夕方から、豊中と、天王寺区のお寺にあるお墓詣りのはしごをして、父の祥月命日でもある13日は、早朝のお勤めにお寺にお参りし、夕刻にはお迎え日を焚いて、ご先祖様をお迎えしました。



精進料理は見栄えが地味で、その上手抜き料理で、ご先祖様ごめんなさい。(生姜ごはんより白ごはんの方が良かったかな?)
ま~、これは1回の食事ですので・・・・。

花を買ったお店で『おがら』を求めたのですが、「今はそんなことをする人がいない」と、買うことが出来ませんでした。去年の残りを保管していたので何とか送り火も炊くことが出来ました。

年々、行事も簡素化されて、日本文化もすたれていきますね。元気なうちは、頑張って行こうと思います。



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Posted by 梅原 千鶴 at 16:00Comments(0)行事

2015年08月08日

ヒロシマ!!!



8月6日朝8時、私はテレビの前にしっかり座って、NHKの平和記念式典を観ました。

すでに陽は高く、70年前のお天気のような快晴です。

広島市長松井一実氏の平和宣言に、子供代表の言葉に、目頭が熱くなりました。

夫の伯母は被爆者手帳を持っていましたが、気丈で弱音を吐かなかった人でしたが、晩年その後遺症に悩まされていたようです。

私には、腕など露出部分の被爆のケロイドを見せてくれましたが、本人のみが知る傷は目に見えるところ以上に大きく深かったに違いありません。

私の父は保険会社に勤めていて、終戦直後、広島に長期にわたって出張していました。被災された方たちに保険金を支払うためですが、事態が事態だけに、書類が無くても善処したと言っていました。

その当時は、お米を持参しないと旅館に泊めてもらえず、町の中を歩いていたら、石の建物に人が腰かけて座っていた姿が影となって残っていた・・・など、生々しい話を子供のころに聞いたことを思い出しました。

今は故人となられました書家の栗原蘆水先生から直接伺ったお話です。先生は、確か昭和7年のお生まれで、原爆投下された当時13歳の中学1年生、学徒動員で、亡くなられた夥しい遺体の処理に当たられたそうです。

私は戦争が終わってから生まれ、平和な時代に育ち、現在まで不自由なく過ごしてきました。
小学生の時、社会科の時間だったでしょうか?、先生が今も地球のあちこちで戦争がある!と耳にした時、まったく理解できませんでした。

私の世代だけでなく若い人々すべてに、核兵器のない、戦争のない世界が未来に向かって開かれることを願ってやみません。




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Posted by 梅原 千鶴 at 16:00Comments(0)ニュース出来事思い出